昭和56年7月22日 朝の御理解 ●② 【入力者:梶原佳行】

御理解第75節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」



 信心を頂いておれば、まぁ心で人を傷付けたり、殺したりするようなことがあってはならない。もし自分の心にそういう心を発見したら、もう本気で改まらなければならない。本気でお詫びをしなければならない。人間の心の中には、鬼と仏が同居しておるといわれるくらいですから、自分ならが自分の心が拝みたいような心と、本当に浅ましい、いうなら人で、心で人を傷つけ殺したり、それが態度に出たり、口に出たりいたしますといよいよいけません。
 ですからそういう心を、私共の心の中に感じた時、ね、本当に心から詫びていかなきゃならん、こんな事ではおかげは受けられん、とまぁ信心に精進させて頂く者の心得としとかなきゃならん。
 昨日、丁度研修のちょっと前ぐらいだったでしょうか。あの福岡から、「マジマ」という方が熱心に参ってきます。デザイナーを仕事となさる方なんです。なかなかよい信心が出来るし、同時に理解力も大変あります。えー、福岡西分会に所属しておるご信者です。
 昨日お参りをしてまいりましてから、親先生今朝方からもう本当に嫌なお夢を頂いたとこういう。●②それは、自分のようでもあるけれども、人のようでもあるけれども、そのこう道べたにひらっぺたくなって死んでおるという。しかも腸がもうこう出てね、もう目が覚めて、とても気持ちが悪かったとこういうわけなんだ。
 ね、それで、まぁ私はまぁ申しましたけれどもね、えー、み教えの中の一節に「日に日に生きるが信心なり」と仰せられます。ね、生き生きと、もう自分の心がそれこそ瑞々しい心で日々を生きて行くということが信心である。そういう瑞々しい生き生きとした心を頂くことのために、それを引っくり返して考えると、日に日に死ぬるが信心なりということになるんですよと。●
 ね、自分というものを、日々空しゅうしていくということです。ね、ですから、まぁ自分の心の中、いわば腸が腐っておれば、腐った心が。浅ましい心があれば、そのまぁここ辺では、腸のことをぞうわたといいます。もうあん奴ばっかりはそうはぞうわたん悪かやっちゃあるばの、という風に言うですね。腹の悪いということ。この辺では、もうあん奴はもうろくな奴じゃなか、ぞうわたが悪かちこういうです。
 そのぞうわたがね、出るほどに日々自分というものが空しゅうなって行く、死んで行く。そのつどに私は、日に日に生きるが信心というような生き生きとした心が生まれてくるんじゃないでしょうかって。ね、それは気持ちの悪いごとあるけれども、なら自分の心を見定めて見ると、日々そのいうならばいやしい汚い、いうならば人を平気で傷付けるような心までがある。それが毎日こう出て行く為には、自分が信心は日に日に死ぬるが信心である。
 そこから、次ぎにまた生みなされて来るというか、生まれかわってくるというか、それが日に日に生きる、とまぁ申しましたことでございますけれども。ね、その人を傷付けたり、ね、人を心で殺したりとする心が、ね、神様が見ておられるのですから、昨日の昼のミニ御理解ではないですけれども「目に見えるところより、目に見えぬところを大切にする」という。
 ね、心は人に見れるものじゃ、自分だけした感じられない。ね、その目に見えないその心を、いよいよ大切にする。そういう精進をさせて頂くということと同時に、信心のいよいよギリギリ生き生きとした信心を頂かせていただくために、ね、自分というものをいよいよ空しゅうする稽古。人を殺すのではない。自分自身を、いうならば殺して行くという信心からね、今度はどういうことになりますか、人を傷付けたり、殺したりという心ではなくて、心で、いうなら人を助ける。
 昨日でしたかね、一昨日でしたか頂きました、「影で人を助けよ」といったような働きが出来てくるようになるのです。ね、これも目には見えないことですから、ね、影でのことですから、けれども神様がそれを見逃しなさるはずはありません。信心とはそういう、ね、まぁいうなら生かすも殺すも、ね、自分の心次第だと分からせてもろうて、ね、神様に喜んで頂けれる、安心して頂けれる信心。それは目に見えないところを大切にする。まぁ昨日の昼のご理解を頂くと、おかげで信心が出来ます。
 例えば難儀、それを昨日はめぐりのおかげで信心が出きます。といったような信心をといわれており、てありましたが。ね、日々自分が死んで、自分のいうならもうよしもなければあしもない。ぞうわたが出るほどしの、いわゆる自分というものを空しゅうしての生き方に、もう必ずや生き生きとした心が、その後には誕生しておる。ね、そういう心をここでは願われたのではないでしょうかね。どうぞ。